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​井上修志九州初発表、初個展

​一周の螺旋は円にも見える

私は3.11の時に一瞬にして街が瓦礫の山となる姿を見て、社会と環境の関わりについて考えさせられ現在の制作に至っています。それは同時に私たちが技術的進歩を進める中で世界とどう関わるかついて考える事でもありました。

人類は産業革命以降、飛躍的に発展し生活を便利にしています。そうした科学技術は世界に様々な影響を与えてきましたが、その影響は一概に良い影響とは限りません。そして扱う技術力が大きくなれば、その技術によって引き起こされる問題も大きくなる事も事実だと思います。現在、私たちの社会は多くの科学技術と共にあり、それに伴う多くの問題の上に成り立っています。

問題が生まれるから飛躍があり、飛躍がある問題が生まるという矛盾の中に私たちの営みがあると言っていいでしょう。

矛盾の中で連続する発展とそれによって引き起こされる問題の繰り返しの構造は円環にも見えます。しかしそれは円環ではなく、二度と戻らない同じ所には戻らない螺旋状なのかもしれません。私はその螺旋状の先がどこに向かうのか、また何ができるのか

ささやかながら考えてみたいと思っています。                                

                                                   

                                                井上修志 

inoue.jpg

​INOUE 
Shuji

tokyo, japan

exhibition in 2023

会期:2023 年 2 月4日(土)- 4 月 2 日(日)

会場:AIR motomoto

 ギャラリースペース・裏庭

時間:13:00-19:00 ※ただし入場は18:30まで

入場無料 開館日:金・土・日

完全予約制 ※2 月 4 日(土)のみ予約不要 

​展示フライヤーダウンロード

 

井上 修志

1995 年 宮城県⽣まれ

2021年 東京東京藝術大学大学院グローバルアートプラクティス専攻修了

自身が持つ3.11の経験から社会の脆さや危うさ、また対峙する社会と自然の構造に興味を持つ。公共空間に作品を持ち込み、場所で物理的に規定される事、或いは場所へ依存する作品が多い。空間が持つ歴史や意味性を紐解き、自らのフィルターを通して現在と接合する。日常生活で不要になった物や廃棄物などを素材とした彫刻作品やインステレーション作品を手掛ける。

2022年招聘作家・井上修志は、昨年11月初旬から約3ヶ月、熊本県荒尾市に滞在し制作に取り組みました。

今回の熊本滞在は、作家にとって初めての九州での生活でした。

純粋な好奇心と、明確な制作に向けての視点を持って井上は、荒尾近郊だけではなく、産業革命遺産を中心としたリサーチをしながら南下し、熊本市内、益城、天草、長崎、佐賀、福岡と九州を円を描くように、土地を巡りリサーチを続けました。

どのような形で今回の成果展で発表されるのか。​ぜひ、足を運んでお確かめください。

​アーティストトーク開催

井上 修志(いのうえ・しゅうじ)
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花田 伸一(はなだ・しんいち)

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​アーティストトーク・資料ダウンロード

 

Artist Review

身体と言語による螺旋運動あるいは円運動

花田伸一(キュレーター/佐賀大学芸術地域デザイン学部准教授)

 

 これほど力業なインスタレーションを見たのは久しぶりである。痛快だ。映像やインターネットなどデジタルツールを用いた表現、地域の人々と関わりながら出来事を紡いでいくリレーショナルな表現が数多く見られる現在にあって、これだけの作業量と物量で生々しく勝負する体当たりな表現は珍しい。

 今回、井上は motomoto の敷地正面から建物裏の展示入口に至るまでの導線に沿って地面に穴を掘り、塹壕のようなアプローチを作った。掘られた穴は土泥が生々しくむき出しになっており、私自身はほとんど鼻が利かないものの、それでも土や草の濃厚そうなムンムンとした匂いの気配は十分に感じられた。土のでこぼこ、坂の上り下りに足を取られ転ばぬよう、たどたどしく歩を進める途上、土遊びに興じていた幼少期の無上の昂揚を思い起こしたり、延々と繰り返され終わりが見えない肉体労働の徒労感に気が遠くなるような眩暈を覚えたりしながら奥の敷地へ。

 建物裏側へと回り込み、ガラス窓の開口部から展示室に入ってみると、中はコンクリートに囲まれたハードボイルドな空間。土方(ドカタ)感あふれるモルタル塗りの歩道が鑑賞者を展示室入口から出口へと誘う。床面から嵩(カサ)上げされた歩道の嵩部分には古びた日用品や電化製品などがランダムに積み重ねられモルタルの隙間から見え隠れしている。歩道を奥まで進むと突き当り出口にドア。開けてみると室外の景色が目に飛び込むが、ドア位置が地面より高いため、眼下に先ほど通ってきた塹壕を見下ろす格好となる。その落差1メートルほどか。何も考えずにドアから外へ出ると確実に怪我をする。

 「一周の螺旋は円にも見える」との展覧会タイトルを思い起こしつつ鑑賞者の動きを見てみよう。鑑賞者は敷地入口から建物脇の塹壕を通って展示室内へ、さらに室内の歩道に沿って出口まで移動する。その道のり全体を通して鑑賞者は緩やかな高低差を伴う螺旋状の円運動をすることになる。

 井上はこれまで《海を繋ぐ》(2019)、《釣れた魚に街の風景を見せる》(2021)などの作品で自然と人間の営みの対比を扱ってきた。あるいは《日和山の階段を新しい視点まで延長してみる》(2021)、《床をあげる》(2022)などで視点の移動を扱ってきた。今回の作品ではその両方が含まれる。本作では、感覚的には自然と人間の営みを対比させながら体感的に立ち位置の変化を生ぜしめ、そのことを通じて概念的にはそれら全体を俯瞰する視点への省察を促している。

 人類の歴史を俯瞰してみるとき、文明や科学技術など英知の積み重ねによって私たちの社会は螺旋を描きつつ少しずつより良きものに向かって上昇しているはずだとする進歩史観を取りたくなる。が、しかし、見方を変えればその螺旋運動は上昇ではなく下降なのかもしれないし、同一平面上でぐるぐる円周運動を繰り返しているだけなのかもしれない、と井上は語る。

 ハチドリの一滴のような私たちのちっぽけな活動はいかに螺旋たりえるか、いや、円にとどめておくべきなのか。自然と人間の営みの対比(nature/culture)を無為/有為の対比へとずらして考えても良いかもしれない、あるいは無限/有限の対比か。仏教の輪廻思想やニーチェの永劫回帰を思い起こさずにはいられない。また、そもそも俯瞰しているつもりでも、そこかしこに死角があって多くの事が見逃されていることも私たちは忘れがちだ。たかだか人生100年程度では時間が足りない、いや、長すぎるのかもしれない。そして思考はどこまでも堂々巡りのまま振り出しに戻りつづける。

螺旋にみる問いと希

楠本智郎(つなぎ美術館学芸員)

 

 3月下旬の暖かい日差しの中、大量に盛られた残土の横を通り、新緑に覆われた地表に目をやると深さが人の背丈ほどもある塹壕のような長い溝が建物に沿って掘られていた。土を削ってつくられた階段で溝の中へ下りると、どこか懐かしい泥土と夏草の入り交じった臭いにむせそうになり、視覚よりも嗅覚による知覚が先行したことに自分でも少々驚いた。

 目の高さに地表が広がる、まるで自分が小さな虫になったような感覚は、‘虫の目’を手に入れた栗林慧の昆虫写真とも重なった。溝の土層には灰色のコンクリート片や黒いビニール袋などの廃棄物も混じっており、地表の風景に覆い隠されたはずの人間の過去の営みが剥き出しになっていた。全て手掘りという膨大な労働の痕跡でもある溝の先には地上へと向かうスロープがあり、そこはガラスの引き戸を経て建物内部へとつながっている。建物内部に床からかさ上げされて設けられたモルタルの道の下を覗くと不要になった電化製品など、どこかで目にしたことがある品々が積み上げられていた。さらに道を進み行き止まりにある磨りガラスがはめられた扉を開けると最初に溝へ下りた土の階段を見下ろす位置に大きな円を描くように戻っていたが、高低差があるためにこれ以上は先に進めない。ここで初めて「一周の螺旋は円にも見える」という本展のタイトルを意識した。

 螺旋は弧を描きながら垂直方向に延びる三次元の線を意味するが、確かに真上から眺めると線が重なり円に見える場合もある。泥土からモルタルへと変わる1本の道が顕わにするのは、我々の過去の雑多な日常とその中で見え隠れする曖昧なままの境界の存在である。新緑に覆われた地表と土層に挟まれた地下、モルタルの路面とその下に積み上げられた廃棄物、野外と屋内、これらは共時的にも通時的にも境界の存在を印象づけ、その意味を問う。人類が進歩しても領域を隔てる境界がなくなることはなく、永遠にそれぞれの世界が併存し続けることを示しているようにもみえる。いや、進歩したと思っているのは事実誤認であり、実は同じことをいつまでも繰り返しているだけなのかもしれない。

 ところで、妖怪研究の第一人者ともされる民俗学者の小松和彦は人間の心の闇や理屈では説明できない事象に対する不安が生み出す妖怪は、異界との境界に現れるとした。小松が言う異界とは日常における理解を超えた外の領域を指している。先ほどのモルタルでできた道の行き止まりの向こうに我々の感性の限界を超える世界が広がるとするならば、まさに扉は異界との境界であり、扉にはまった磨りガラスはそこに立つ者の心を映す鏡であるとも言える。つまり、扉の向こうに続くかもしれない螺旋を登り続けるためには、もはや人知を超えた能力に頼らざるを得ないという我々の追い込まれた状況を示しているとも考えられる。

 一方、人類は幾多の危機を迎えながらも知恵を出しながらなんとか生きながらえてきた。考古学や民俗学では螺旋の形態のひとつを平面化した渦巻紋は魔除けの意味を持つとされる。本展に古代人の思想を通じて日本人特有の世界観を解き明かそうとした民俗学者の折口信夫の思想に通じる作意を感じ、人類の未来にささやかな希望を見いだそうとするのはいささか深読みのし過ぎであろうか。

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